vol.2 林鼓浪やお鯉さんとの親交

◎「阿波踊り」の名付け親・林鼓浪との交流

寿三郎は、「阿波おどりの名付け親」である、林鼓浪(はやし・ころう)と深い親交がありました。林鼓浪は「徳島最後の粋人」と呼ばれ、書画や芸能にも長けていた郷土史家です。林鼓浪の内妻だったのが、富田街の芸姑衆に三味線の指導にあたっていた清元延喜久(きよもと・のぶきく)で、そのよしみから寿三郎が取り仕切っていた徳島花柳界によく出入りしていたのです。

二人は、お互いに交流を重ねながら影響を与えあっていきました。

年齢は20歳ほど寿三郎が年上。早い時期から林鼓浪の才能に惚れ、芝居に関する多くの仕事を任せていたそうです。逆に林鼓浪は、寿三郎を兄貴分として慕っており、史実として「芸の手ほどきを受けた」と記録が残っています。

林鼓浪は、徳島に芝居の劇場を作る際に寿三郎に声を掛け、その時のことを著書でこう記しています。

林 鼓浪
林 鼓浪

「こけら落しの初開場に市川寿三郎が乗り込んでくることになった。この役者は富田町の新丁子の女将と夫婦になっていたが本人は大阪九条に住宅を構え、当時道頓堀の桧舞台で育った名題の大阪俳優で、この人がいつも舞台で使うせりふ書や丸本はほとんど私が書いたといっていい。」

(中略)

「寿三郎なら徳島の花柳界に地盤を持っているので、開場に、まずこの役者を入れておけば大丈夫と大阪へ交渉したのが、案外話が早くまとまり、市川寿三郎に片岡長七郎、中村駒之助の一座で、こけら落しとして華々しくふたをあける事に決まった。」

『林鼓浪遺作集』林鼓浪著より

鼓浪が寿三郎に、芸人として絶大な信頼を寄せていたことがうかがえます。

林鼓浪はその後、昭和21年に結成された『オール前川娯茶平倶楽部』(のちの有名連「娯茶平」)で、踊りの指導にあたりました。こうして歴史のつながりを考えると、感慨深いものがあります。

 

多田 小餘綾・お鯉さん
多田 小餘綾・お鯉さん

◎「阿波の盆踊り」から「阿波踊り」へ

大正6年(1917年)。寿三郎が51歳の時のこと。林鼓浪の内妻で芸妓たちに三味線を指導していた清元延喜久の元へ、10歳の少女が弟子入り志願をしてきます。その少女こそが、のちの阿波よしこの節の名手、多田小餘綾(ただ・こゆるぎ/通称:お鯉さん)。その美声から、瞬く間に人気の芸姑と成長していきました。富街芸妓衆を取り仕切っていたのが寿三郎だったため、お鯉さんと寿三郎もまた深い親交がありました。

「お茶屋では、それぞれ丁字がつく、本丁字・新丁字・上丁字。すぐにやめたが小丁字など。丁字の主人が米澤さんで検番の番頭をしとりました。上丁字も一流の茶屋。ここのおかみさんがおかのはん。歌がうまかった。気合がようて、ほんまにええぐあいの人でありました。」

『続・徳島むかしむかし』飯原一夫著より

料亭「上丁字」の庭にて
料亭「上丁字」の庭にて

当時の資料から、人望が厚く、徳島の人々から慕われていたことがうかがえます。

花柳界に阿波の盆踊りが浸透し、上客の商人の間で大流行。お鯉さんも人気を極めていくと、芸姑は季節を問わず踊りを踊るようになっていきます。さらに三味線を主体としたスタイルが確立されることで、「盆踊り」という言葉から飛躍した進化を遂げていきす。

そして昭和3年(1928年)。林鼓浪によって昭和天皇御大典奉祝・徳島市制記念に、「阿波の盆踊り」は『阿波踊り』と改名されます。それは、今後全国へ広がる新しい「阿波踊り」を予感させる大きな出来事となりました。

(次回につづきます)