vol.4 一夜にしてすべてを失った日

◎街中を焼け野原にした徳島大空襲

徳島花柳界、そして阿波踊りの歴史の中心にあった米澤家でしたが、その隆盛はあっけなく終りを迎えます。昭和20年(1945年)の徳島大空襲で、一夜にして実家の経営していた料亭がすべて焼失したのです。

関 寛斎
昭和20年(1945年)徳島大空襲直後の徳島市

米澤の一族は、徳島・八万町へ疎開。生活のすべてを失い、ゼロからのスタートでした。

阿波踊りが再開されたのは、終戦から2年後の昭和22年(1947年)のこと。徳島の民衆は、阿波踊りによって生きるための力を取り戻していきました。それから2年後の昭和24年(1949年)、疎開先の徳島・八万町の家で寶船連長・米澤曜は生まれました。終戦からわずか4年後のことです。

幼少期を過ごしながら触れていた戦後すぐの阿波踊りは、人間のエネルギーそのものでした。現在のように整った演舞場があるわけではなく、「連」も現在のように皆同じ踊りをするわけではありませんでした。米澤曜いわく、「大の大人が狂喜乱舞をしていて、子どもだった頃の自分にとっては、踊りに近づくのさえ怖かった。最前列で見なさいと言われ、泣いて嫌がった」とのことです。まさに命懸けの生活を送っていた民衆にとって、ハレの場である阿波踊りには並々ならぬ気迫が込められていたのでしょう。

寶船の「踊り出したら命懸け」という合言葉は、この米澤曜が目にした阿波踊りの強烈な体験が根底にあるのかもしれません。「死ぬか、生きるか」という二元論ではなく、阿波踊りに込められた「生きることに手を抜かない」という徳島人の精神が連長の体験から感じられます。

その後、米澤曜は両親に連れられ上京。生活を一からやり直すために、選択を余儀なくされた結果でした。それは徳島人としては、故郷を離れ、「よそ者」として生きていくことを意味していたのです。

 

◎阿波踊りの歴史を変革してきた家系の精神

これまで紹介したように、古くから徳島と阿波踊りに縁が深い家系であったことがわかります。幼少から本場の阿波踊りが根付いた家庭に育ち、その芸能性・大衆性・精神性にその肌で触れてきました。

歌舞伎という日本芸能の精神。大阪育ちであるからこそ阿波踊りの魅力を俯瞰できた「よそ者」の感覚。徳島花柳界へ阿波踊りを取り入れた時代の嗅覚。コロムビアレコードの担当者にお鯉さんを紹介したプロデューサー的視点など。阿波踊りを発展させる上で、先人から学ぶべきことは数多くあります。

平成7年(1995年)結成当初の連長・米澤曜
平成7年(1995年)結成当初の連長・米澤曜

平成7年(1995年)、米澤曜は東京にて寶船を創設。

当時から本来の阿波踊りを受け継ぎ、更なる可能性を示したいということが活動の動機でした。そして、「阿波踊りは、世界に通じる芸能になりえるはずだ」という受け継いできた精神が土台となっています。それはまるで、「よそ者」の視点から阿波踊りを変革しようとした市川寿三郎(本名:米澤廣之助)と同じ境遇であるとも言えます。

(次回につづきます)