寶船と阿波踊りの関わり

マサとの結婚をきっかけに深い縁を結んだ徳島の地。廣之助はそこで、後に阿波踊り史に大きな足跡を残す、もうひとりの人物と出会います。「阿波踊り」の名付け親として知られる林鼓浪(はやしころう)です。
林鼓浪は、「徳島最後の粋人」と呼ばれた郷土史家。書画や芸能にも深く通じた文化人でした。内妻であった清元延喜久(きよもとのぶきく)は、富街の芸妓たちに三味線を教えていた人物で、そのよしみから廣之助が関わる徳島花柳界へたびたび足を運んでいたのです。

年齢は廣之助がちょうど20歳年上。鼓浪は廣之助を兄貴分のように慕い、その芸にも深い敬意を寄せていました。
一方の廣之助もまた、若き鼓浪の才能を見抜き、厚い信頼を寄せていたようです。後年、舞台で使用する台本の多くを鼓浪が手がけていたことからも、その関係の深さがうかがえます。
1904年(明治37年)。鼓浪は、徳島に「稲荷座」という新劇場を開くにあたり、そのこけら落としを廣之助に託そうと考えました。著書の中で鼓浪は、廣之助を親しく「寿三郎」と呼びながら、当時の様子を次のように振り返っています。
「こけら落しの初開場に市川寿三郎が乗り込んでくることになった。この役者は富田町の新丁子の女将と夫婦になっていたが、本人は大阪九条に住宅を構え、当時道頓堀の桧舞台で育った名題の大阪俳優で、この人がいつも舞台で使うせりふ書や丸本はほとんど私が書いたといっていい。」
(中略)
「寿三郎なら徳島の花柳界に地盤を持っているので、開場に、まずこの役者を入れておけば大丈夫と大阪へ交渉したのが、案外話が早くまとまり、市川寿三郎に片岡長七郎、中村駒之助の一座で、こけら落しとして華々しくふたをあける事に決まった。」
『林鼓浪遺作集』林鼓浪著より

廣之助の芸に惚れ込み、新劇場の幕開けを託した鼓浪。この記述からは、廣之助が単なる人気役者ではなく、大阪の歌舞伎界と徳島の花柳界をつなぐ稀有な存在だったことが伝わってきます。
その背景には、芸の実力だけではない、人望と厚い信頼があったのでしょう。
1917年(大正6年)。廣之助が51歳の頃のこと。富田町の芸妓たちに三味線を教えていた清元延喜久のもとへ、ある日、十歳の少女が弟子入りを願い出ます。その少女こそ、後に「阿波よしこの節」の名手として知られる多田小餘綾(ただ・こゆるぎ)、通称・お鯉さんでした。
お鯉さんは芸妓の見習いとなる頃、廣之助とマサが営む料亭「上丁子」の隣へ移り住みます。彼女は後年、当時の修行の日々をこのように振り返っています。

「富田町の上丁子というお茶屋の隣へ引っ越していきましたんよ」
「毎晩、高い高い調子で清元・長唄を二時間ぐらい。真夜中の静かな町へ血を吐きもっての声ですけん、ずいぶんと近所も迷惑なことであったんです。上丁字はやかい(夜会)でも文句もいわずに、となり近所がよう協力してくれたもんじゃと思いますんよ。」
『続・徳島むかしむかし』お鯉さんの話より
上丁字の人々に見守られながら芸を磨いた少女は、やがて、その澄んだ歌声が評判となり、人気芸妓へと成長していきます。
富田街芸妓衆を取りまとめていた廣之助にとっても、お鯉さんは幼い頃から成長を見守ってきた身近な存在だったのでしょう。
こうした花柳界の努力で阿波よしこの節が浸透し、上客の商人たちの間で人気を集めるようになると、芸妓たちは季節を問わず踊りを披露するようになっていきました。
美しく芸達者な芸妓たちが人気を集めることで、三味線を習いたい若者も増えていきました。
市内には三味線の稽古場が増え、練習の成果を披露するように、街を演奏しながら歩く「三味線流し」も流行しました。
親たちは競って娘に華やかな衣裳を着せ、街へ送り出したといいます。阿波の盆踊りは、花柳界の芸と結びつくことで、徳島の街全体を巻き込む文化へと成長していったのです。

昭和初期までの花街は、まだ江戸時代から続く古い慣習が残っていました。
当時、遊郭や花柳界において深刻な影を落としていたのが、梅毒や淋病といった感染症の蔓延です。これらは「花柳病(かりゅうびょう)」と呼ばれ、大きな社会問題となっていました。
事態を重く見た政府は、近代化政策の一環として「芸娼分離」を推進。「芸娼分離」とは、芸を生業とする芸妓たちの「花街」と、遊女たちの「色街」を明確に区別する方針です。それは、花街の仕組みそのものを根底から覆す大きな変革の始まりでもありました。
1928年(昭和3年)に「花柳病予防法」が施行されると、営業形態や税制などの取り締まりが厳格になり、富田町も例外なくその対象となります。
しかし、富田町の芸姑たちは、性感染症検査の強制に対し「富街はやましいものではない」と強く反発。当時の新聞には、一歩も引かぬ彼女たちの緊張感漂う様子が克明に記録されています。


この年を境に、富田町は「芸と食の街」、隣の秋田町は「遊郭」と区分されることになりました。廣之助たちにとっても、古い慣習を改め、新しい時代の花街へ生まれ変わることが求められていたのです。
そんな激動の1928年(昭和3年)12月。廣之助は、同じく富田町で料亭を営んでいた新居義三郎とともに、運営母体であった検番の「株式会社化」に踏み出します。「富街芸舞妓検番株式会社」の設立です。
それは単なる組織変更ではありませんでした。花柳界の近代化と、花街を「芸の街」として再構築していく意思の表れでもあったのです。
出資者および取締役として、当時の設立資料に確かに刻まれている米澤廣之助の名。そこから浮かび上がるのは、従来の慣習に安住することなく、自ら時代の変化を取り込もうとする廣之助たちの姿です。
その姿勢は、後に寶船が阿波踊り連として初の法人化へ踏み切った歩みとも重なります。
そして廣之助たちの決断は、数年後、大きな実を結ぶことになります。「阿波の盆踊り」は「阿波踊り」へ。お鯉さんの歌声はレコードとなって全国へ響き渡ることになるのです。
(第三話へ)