メインコンテンツにスキップ

寶船 TAKARABUNE

由縁と原点

寶船と阿波踊りの関わり

第三話

全国へ羽ばたく「阿波踊り」

第3話|全国へ羽ばたく「阿波踊り」

「阿波の盆踊り」から
「阿波踊り」へ

昭和3年(1928年)12月、廣之助らの手によって「株式会社」として新たな一歩を踏み出した富田町検番。彼らが目指したのは、芸娼分離の荒波を乗り越え、富田町を本物の「芸の街」として再構築することでした。

折しもこの年は、昭和天皇の御大典奉祝に日本中が沸いた年でもありました。当時の新聞には一年中お祭り騒ぎが続いたと記録されており、徳島では重ねて「徳島市制四十周年祝賀踊り」も行われ、街はかつてない熱気に包まれていました。

株式会社化の背景には、芸娼分離の課題だけでなく、こうした歴史的な盛り上がりを一過性のものに終わらせないためという狙いもあったのです。

第3話|全国へ羽ばたく「阿波踊り」
御大典奉祝に湧く当時の新聞
第3話|全国へ羽ばたく「阿波踊り」
御大典奉祝によって豊年となった報道の新聞

こうして近代化へと舵を切った富田町ですが、それまでの「阿波踊り」は、現代のイメージとは大きく異なっていました。

当時は「阿波踊り」という名称すら定着しておらず、新聞には「狂踊り」「発狂踊り」「気狂い踊り」「狂気踊り」といった名称さえ見られるほど。あまりの熱狂ぶりから、江戸時代には一揆や騒動を恐れた幕府によってたびたび禁止令が出された歴史もあり、本来は民衆の荒々しいエネルギーを色濃く残した祭りだったのです。

第3話|全国へ羽ばたく「阿波踊り」
1909年(明治42年) 大阪朝日新聞 阿波附録記事
第3話|全国へ羽ばたく「阿波踊り」
阿波踊りにバイオリンの演奏

楽器にしても、チャルメラやバイオリン、クラリネットなど、「鳴らせるものは何でも鳴らせ」という自由な芸態でした。

けれど、その熱狂の中に新たな可能性を見出したのが、廣之助やマサをはじめとする富田町の花柳界です。

彼らは阿波の盆踊りを単なる祭りとしてではなく、徳島を代表する芸能へと高めようとしていました。「芸の街」としての誇りを胸に、三味線や唄、踊りの要素を取り入れながら、より洗練された芸能へと磨き上げていったのです。

第3話|全国へ羽ばたく「阿波踊り」
繰り出した富街連中 昭和初期
第3話|全国へ羽ばたく「阿波踊り」
林鼓浪

翌年の昭和4年(1929年)。
徳島商工会議所の会頭・玉田弥伊太は、盛大に盛り上がった阿波踊りを「観光資源」として全国へPRにするため、新たな策を郷土史家・林鼓浪に相談します。

鼓浪が提唱したのは、それまで様々な俗称で呼ばれていたこの踊りを、正式に「阿波踊り」と名付けることでした。
呼び名を統一することで無秩序な印象を払拭し、徳島を代表する文化として新たな価値を築くブランド戦略だったのです。

この命名によって「阿波踊り」という統一された名称を得て、以後その名は広く世間へ定着していくことになります。

こうして花柳界による芸能としての改革と、林鼓浪による命名が重なり、「阿波踊り」は新たな時代へ歩み始めることになるのです。

お鯉さんの唄声と、
上丁字での契約

昭和6年(1931年)、阿波踊りの歴史において、特筆すべき出来事が起こります。
当時、唄の名手として評判を集めていた芸妓・お鯉さんと、日本コロムビアレコード大阪支社との対面が実現したのです。

第3話|全国へ羽ばたく「阿波踊り」
若き日のお鯉さん

この顔合わせの背景には、関西の芸能界と深い繋がりを持っていた廣之助の存在がありました。

お鯉さんは当時、廣之助が番頭を務めていた富田町芸妓検番に所属。かつて関西で歌舞伎役者として活動し、芸能界やメディア関係者とも広い交流があった廣之助だからこそ、この貴重な縁を手繰り寄せることができたのでしょう。

実際、大阪から担当者を迎え、その歌声を披露する舞台となったのは、廣之助とマサが経営していた料亭「上丁字」でした。

彼女の歌声は担当者の心を捉え、その場でレコード発売の合意へと至ります。お鯉さんは後年、当時を次のように振り返っています。

「二十四のときでした。『阿波踊り』を捜しにきとったコロムビアの人に、上丁字で歌を聞いてもらいましたの。結果がよかったんでしょう。吹き込みをすることになり、大阪へ行きましたんですよ。」

『続・徳島むかしむかし』お鯉さんの話より

料亭「上丁字」で結ばれたこの運命的な約束は、やがて阿波踊りという文化そのものを全国区へと押し上げる、最初の引き金となったのです。

阿波踊りの歴史を変えた
レコードの誕生

昭和6年(1931年)。大阪のコロムビア大阪支社で、お鯉さんの歌声が収録されました。こうして、世紀の名盤「徳島盆踊唄」が誕生します。

翌年の昭和7年(1932年)にレコードが発売されると、お鯉さんはNHK大阪放送局でラジオ番組にも出演。さらに昭和8年(1933年)、待望のNHK徳島放送局が開局したことも追い風となり、その人気は瞬く間に広がっていきました。

徳島の花柳界から、一躍全国に知られるレコード歌手となったお鯉さん。彼女の美しい唄声に乗って、阿波踊りは全国へと羽ばたいていきました。

第3話|全国へ羽ばたく「阿波踊り」
徳島盆踊唄
第3話|全国へ羽ばたく「阿波踊り」
お鯉さん

「徳島盆踊唄」はその後、「阿波踊り囃子」や「阿波よしこの節」と名を変えながら、何度もレコード化されていきます。

お鯉さんは、2008年(平成20年)に102歳で亡くなるまで生涯現役を貫き、「阿波よしこの」の普及に貢献し続けました。

そして、そのきっかけとなった上丁字での出会いを陰で支えた廣之助とマサ。二人の行動は阿波踊りの歴史を動かし、その後の運命を変えることになったのです。

阿波踊りの礎を築いた
米澤廣之助

歌舞伎の世界で名を上げ、激動の時代の中で近代阿波踊りの礎を築く一端を担った廣之助。

その後も1935年(昭和10年)に亡くなるその日まで、富田町検番株式会社の取締役として力を尽くし続けました。

花柳界の法人化に踏み切り、阿波の盆踊りを芸能として磨き上げ、さらに新しいメディアの力をも味方につけようとした先進的な姿勢。その廣之助の精神は、形を変えながら阿波踊り文化の中に、そして何よりその血脈と情熱を受け継ぐ「寶船」の挑戦の中に、今も脈々と息づいています。

第3話|全国へ羽ばたく「阿波踊り」
米澤廣之助 死亡による登記変更資料

彼の功績は、死後も忘れ去られることはありませんでした。
亡くなってから17年が経った1952年(昭和27年)。徳島の東宝劇場では、かつて同じく取締役として富田町検番を支えた佐藤善一郎とともに、廣之助を偲ぶ追善の催しが開かれています。

それは、花柳界の人々にとって彼の存在がいかに大きかったかを物語る出来事でした。そしてその足跡は、今も徳島の歴史の中にひっそりと刻まれているのです。

第3話|全国へ羽ばたく「阿波踊り」
昭和27年 富街検番二取締役 追善会

(第四話へ)