寶船と阿波踊りの関わり

徳島花柳界、そして阿波踊りの歴史の中心にあった米澤家でしたが、その隆盛はあまりにも突然の終わりを迎えます。
1945年(昭和20年)の徳島大空襲により、長年経営してきた料亭や富田町の検番は、一夜にしてそのすべてが焼失したのです。


米澤の一族は戦時中に徳島・八万町へ疎開。財産のすべてを失い、まさにゼロからの再出発を余儀なくされました。
焼け野原となった街で阿波踊りが再開されたのは、終戦から2年後の1947年(昭和22年)のこと。徳島の民衆は、踊りの中に生きるための希望を見出していきました。
そして1949年(昭和24年)、疎開先の八万町にて、のちに寶船を創設する米澤曜(あきら)が誕生します。終戦からわずか4年後のことでした。
幼少期を過ごしながら触れていた戦後すぐの阿波踊りは、人間のエネルギーそのものでした。整備された演舞場もなく、連ごとの統一された踊りもありません。
曜は、当時をこう回想しています。
「大の大人が狂喜乱舞をしていて、子どもだった頃の自分にとっては、踊りに近づくのさえ怖かった。最前列で見なさいと言われ、泣いて嫌がったよ」
日々を命懸けで生きていた民衆にとって、ハレの舞台である阿波踊りには並々ならぬ気迫が込められていたのでしょう。
その後、曜は両親に連れられ東京へと移住します。それは、生活を一からやり直すための苦渋の選択でした。徳島人としての誇りを胸に抱きながらも、故郷を離れ、「よそ者」として生きていく。ここから、米澤家の新たな苦闘と挑戦の歴史が始まっていくのです。

曜が青春時代を送り、やがて家庭を持ったのは、偶然にも関東最大の阿波踊りの街・高円寺でした。
その地で再び間近に阿波踊りの熱気に触れた彼は、自らの血に流れる使命感のようなものを、静かに呼び覚まされていったのかもしれません。


歳月は流れ、1995年(平成7年)。
阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件が起き、本格的なインターネットの幕開けとなった「Windows 95」が発売されるなど、まさに時代の転換点となったこの年、寶船は創設されました。
拠点となったのは、新たに住居を構えた東京・三鷹市。
しかし、本場・徳島から遠く離れた地で生まれた寶船は、阿波踊り業界において常に「東京のよそ者」であり、既成概念にとらわれない異端のグループというポジションを歩み続けることになります。
曜は、あえて徳島の深いルーツを誇示することはありませんでした。それは、阿波踊りが本来、身分や立場を越えて誰もが参加できる無礼講の祭りだったから。
そして、既成の芸態にとらわれず、時代に合わせた独自の挑戦を続けていくーー。そんな歴史への理解と決意のもと、寶船は阿波踊り界初のプロ法人化を実現。インターネットなどの新しいメディアを活用し、世界の舞台へと積極的に飛び出していきました。

組織を法人化し、新しいメディアの力を信じ、地域の枠を越えて外の世界へ打って出る。この寶船の果敢な姿勢は、かつて昭和の黎明期に、廣之助とマサが富田町の地で行った変革と、同じ挑戦の軌跡をたどっているのです。
現在でも寶船の衣裳には、かつて徳島の中心にあった料亭「丁字」のマークであり、店名の由来ともなった米澤家の家紋「丁子紋(ちょうじもん)」が刻まれています。
それは、阿波踊りが全国へ羽ばたくきっかけとなった丁字の歴史と、変化を恐れず挑戦を続けてきた米澤家の歩みを今に伝える印でもあります。
背には大きく「宝」の字を背負い、両肩には丁子紋を配したその姿は、和装の礼服である紋付を思わせる厳かな佇まいを備えています。


寶船にとって祭りの舞台は、ただ踊りを披露する場所ではありません。人間の喜怒哀楽を全身で表現し、観る人の心を揺さぶるための神聖な場です。
だからこそ、その衣裳には先人たちへの敬意と、自らの芸に真摯に向き合う覚悟が込められています。
阿波踊りを芸能として全国に広げようとした廣之助やマサたちの精神ーー。「丁字」の記憶を宿した丁子紋は、その精神が現代の寶船へと確かに繋がっていることを示す、何よりの証(あかし)なのです。
伝統の形をなぞるのではなく、その根底にある「変革の姿勢」そのものを継承する。米澤家が紡いできた開拓者の軌跡は、今も寶船のあらゆる挑戦の中に、静かに、しかし力強く息づいています。
(完)
