寶船と阿波踊りの関わり
寶船は、東京の異色な阿波踊りチームーー。
そんな印象を持つ人にとって、彼らが阿波踊り文化の発展に深く関わっていた家系であるという事実は、にわかに信じがたいはずです。
けれど、歴史を紐解くと、まったく違う景色が見えてきます。
明治から昭和初期にかけて、四国最大の花街であった徳島・富田町。
そこには、阿波踊りの名付け親とされる林鼓浪(はやしころう)と深く交わり、花柳界に阿波踊りを取り入れた立役者がいました。近代阿波踊りの礎を築いた「富街置屋検番」を株式会社化した中心人物でもあります。
そしてその妻もまた、富田町で広く名を知られた芸姑であり、のちに女将として料亭を数軒営んだ人物。二人は、花街を代表する存在でした。


その夫婦こそ、寶船の創始者・米澤曜の曽祖父母です。
二人は広い交友関係を活かし、若き日のお鯉さんとコロンビアレコードを結びつけ、「阿波よしこの節」が全国へ羽ばたく一端を担いました。
その舞台となったのが、米澤家が営んでいた富田町の料亭「上丁子」。阿波踊りが郷土芸能から「日本を代表する芸能」へと広がっていく、その歩みに米澤家は深く関わっていました。
そして時は流れ、1995年に「寶船」は誕生。
寶船はなぜ、既成概念を超えてまで阿波踊りの可能性に挑み続けるのか。
その歴史を辿ると、そこに流れる精神が脈々と受け継がれてきたことが見えてきます。
ここでは、当時の資料と歴史を紐解きながら、寶船の由縁と原点に迫っていきたいと思います。

寶船と阿波踊りの関わりは、創始者・米澤曜(あきら)の曽祖父母の時代にまで遡ります。
曽祖父の名は、米澤廣之助(ひろのすけ)。慶応3年(1867年)、江戸という時代が終わりを迎えようとしていた動乱の中、大阪に生まれました。
幼い頃から上方歌舞伎の世界に身を置き、やがて大阪・道頓堀の舞台に立つ歌舞伎役者として名を馳せます。

芸能文化が隆盛を極めていた、当時の道頓堀。劇場や芝居茶屋が軒を連ね、街の賑わいの中心には常に芝居がありました。
廣之助は、芸名を嵐小珏(こかく)、二代目嵐珏丸(かくまる)、坂東寿三郎、大塚寿三郎、そして三代目市川寿三郎へと、時代ごとに名を変えながら舞台に立ち続けます。
当時、「道頓堀五座」と呼ばれた格式高い5つの大劇場。その中でも「角座(角の芝居)」や「浪花座」といった最高峰の舞台番付に、幾度となく名を連ねていた廣之助の記録が残されています。それは、彼が単なる一役者ではなく、大阪の歌舞伎界で芸を磨いた実力ある演者であったことを物語っています。
後に、徳島で深い交流を持つことになる郷土史家の林鼓浪(ころう)は、 彼について「道頓堀の桧舞台で育った名題の大阪俳優」と記しています。子役の頃から芸を積み重ね、上方歌舞伎の世界で名を上げていった 廣之助。その芸は、同時代の文化人からも一目置かれる存在だったのでしょう。

当時、大阪九条に住まいを構えていた廣之助は、やがて徳島・富田町と深い縁を持つようになります。そのきっかけが、のちに妻となる米澤マサとの出会い。寶船の創始者・米澤曜の曽祖母にあたる人物です。

明治期の徳島市は、全国でも上位の人口を抱える大都市でした。当時は藍の産業が隆盛を極め、商人たちが全国から良質の藍玉を求めて集まっていたそうです。
そうした藍商人をもてなす街として発展したのが、「富街(ふうがい)」の名で知られていた、徳島・富田町。明治中期、花街の運営の中心となる「検番」が設けられたことで、四国最大の花街として栄えていきました。
当時の富田町には200人を超える芸者がいたとされ、路地はお座敷へ急ぐ芸姑が行き交い賑わっていたそうです。
料亭、置屋、芸者からなる組合を取りまとめる事務所。客席に出る芸者の手配や、会計などを行い、料亭やお座敷に関すること全ての運営業務を担っていた。
マサの父は、そんな富田町で置屋や料亭「丁子」を営んでいました。幼い頃から看板娘として育った彼女は、芸にも優れ、舞妓としてもひときわ評判の高い女性だったそうです。
明治23年に発行された、富田町の芸妓や舞妓を紹介する『富街南廓芸娼舞妓見立鏡』には、当時14歳(数え年15歳)のマサについて、次のような評判が記されています。

●丁子 丁吉丈(丁字の丁吉さん)
本名 米澤マサ 十五才(数え年)
都々逸(どどいつ)に「お喋りをするのもどこか頼りなげで、無邪気にホオズキを鳴らして遊んでいる舞妓」という一節がありますが、まさにこの愛くるしい丁吉さんのことを評した言葉ではないでしょうか。まだ大人の色気や香りがあるわけではない、あどけない少女ですが、そこがまた新米の舞妓らしくて可愛らしさに溢れています。
置屋の主人が手のひらの中で転がすように、大切に育てた舞妓ですので、お客さんに甘えることもあります。その様子は、まるでお母さんにおっぱいをねだるような雰囲気です。
しかし、芸事に関しては舞もなかなかのもの、鼓もなかなかの腕前。お喋りの方は「なかなか」どころか、相当なものです。度胸はなくても、生まれつき非常に賢い性格をしています。あと三年も経てば、垢抜けた立派な芸妓になることは間違いありません。今はしっかり見習い修行に励むのがよいでしょう。
とにかく、今はまだ蕾の花が開こうとするその瞬間のような時期。その初々しい姿が、格別の魅力であることは言うまでもありません。

マサはやがて芸姑として立派に成長し、花柳界で頭角を現していきます。そして父の跡を継ぎ、置屋と料亭の女将として、多くの人々に慕われる存在となっていきました。
マサと廣之助は、芝居茶屋で出会い結婚。
廣之助は、歌舞伎役者として活動しながらも、マサの実家である置屋(おきや)と料亭「丁子」の経営を任されることとなります。
それを機に、富田街の検番の頭取(番頭)に就任し、徳島花柳界における繁栄の一時代を築きました。
舞妓や芸姑が住み込みで暮らす家を指す。現代でいう芸能プロダクションと社宅の合わせたもの。ここで日々芸を磨き、料亭・茶屋などに芸者を派遣する。
「丁子」という店名は、米澤家の家紋『左一つ丁子巴紋』に由来するもの。のれんや看板にはこの丁子の紋が掲げられていました。
廣之助は経営の手腕も確かだったようで、明治から昭和初期にかけて、「本丁子」「上丁子」「新丁子」と複数の店を構えるまでに発展。富田町を代表する料亭として確固たる地位を築いていきました。
徳島新聞社が1981年に発行した『徳島県百科事典』にも、富田町検番の項目において、明治期の代表的な料亭としてその名が記されています。


