レポート 阿波踊り

私にとって世界一の夜景は、香港でもNYでもなく、徳島の「眉山」です。

2016/12/26

昨年(2015年)、香港に公演へ行った時のこと。香港島の高層ビルの屋上にあるバーから、世界屈指と名高い素晴らしい夜景を見ました。同じく、NYに行った時にはエンパイア・ステート・ビルに上り、震えるほど美しい夜景を堪能しました。

でも、私にとっての世界一の夜景は、まったく別の場所。ここ日本にあります。
それは徳島市内にそびえ立つシンボル、“眉山(びざん)”から眺める夜景です。

今回は、なぜ私が眉山の夜景を愛し、世界一と感じているのかをお話したいと思います。

眉山で見た、漆黒の空

寶船がまだ徳島で踊っていない頃のこと。私はまだ高校生でした。

私たち家族5人は車に寝袋を積み、東京から徳島へと向かいました。東名高速、片道約640キロ。憧れの街へ、阿波踊りを見に行ったのです。

市内は、圧倒されるほどの華やかさ。まるで異空間のようでした。すべての連を暗記できるほど、私たちは貪欲に阿波踊りを見学しました。しなやかさ、力強さ、リズム。すべてを吸収しようと必死になり、鳴り物を聴くだけで、どの連かを当てられるようになっていました。まだSNSもYouTubeもない時代。憧れの連が目の前に通るだけで、時間が止まるような思いでした。

祭りのフィナーレと共に、眉山の山頂に車で移動する私たち。夜景を眺め、そこで野宿をするためでした。阿波踊りの時期はホテルが一杯なこともあり、寝袋で寝ることがお決まりだったのです。そして、そんなフットワーク軽く旅をすることが、家族みんな好きでした。

 

山頂の駐車場で車を止め、暗がりの中、展望台までの階段を駆け上がります。

すると、正面に宝石を散りばめたような神々しい夜景が広がります。

耳を澄ますと、まだかすかに「ぞめき」が聴こえました。つい先程まで熱気に包まれていたはずが、もう遠い記憶のように感じます。

今、私たち家族5人の存在は、「東京から来た観光客」でしかないーー。わかってはいたものの、本場の規模と熱気に圧倒され、自分の存在がちっぽけに思えました。

 

子どもの頃から、自己嫌悪も自己顕示欲も、『阿波踊り』の中にありました。友達ができたことも、友達が離れていったことも、きっかけは阿波踊りでした。サッカーよりもかっこいいから阿波踊りを選んだわけではありません。テレビゲームより楽しいから踊っているわけではありません。それでも、背負うものが大きい人生が好きでした。

父の故郷であるはずの徳島。しかし、眉山で夜空を仰ぐ私たち親子は、東京の人間になった父親と、その息子たちーー。ただそれだけの存在だったのです。

寝袋に包まり、膝を折りたたみ眠りにつくとき、漆黒の空に潰されそうでした。祭りの高揚感と裏腹に、山頂で顔を撫でる風は冷たく、私はさらに身体を小さく丸めました。私たちは、徳島の一番空の近くで眠りにつき、朝を迎えました。

メンバー7人での奮闘

初めて徳島で踊ったのは、それから数年後の夏。総勢で7人のメンバーとでした。

鉦、締太鼓、大太鼓が一台づつ。踊りが4人。両国橋まで歩いて20分もある学校の校庭に仮設駐車場があり、そこで衣装に着替えました。私たちは緊張感を羽織りのようにまとい、無言で踊りへと向かいました。

「まずは、人の少ないところで踊って緊張をほぐそう。突然はじめたら他の連に迷惑掛けちゃうし…」というメンバーの弱腰な要望を、連長である父はすべて無視。

「ここでやれ!」
そう言って指差した場所は、もっとも人が賑わっていた両国橋交差点のド真ん中でした。

当時、徳島の出発前に「大太鼓を、せめて2台は持って徳島に行きたい」、そう父に話した思い出があります。当時も、大太鼓は8台ほど持っていたからです。

しかし、父は「太鼓は一台だけだ!太鼓の台数で怯むやつは踊らなくていい。一人きりでも立ち向かう気がないのか!」と怒鳴りました。今ならその気持ちが痛いほどわかります。結局、負ける理由を探して、腹をくくっていなかったのです。

そして、父にとっては、故郷を取り戻すような気持ちもあったに違いありません。怯んでいる時点で、徳島の人間ではないことの証明になってしまう。誰も自分たちを知らなくとも、同じ土俵に立つことに価値がある。そう考えていた気がします。

その年、東京から来た無名の赤い集団は、両国橋交差点の真ん中で、たった7人で踊りました。

はじめた瞬間、鳴り物の音は隣の打楽器系の連にかき消されました。向こうは100人が当たり前の集団。大太鼓だけで10台以上。爆音でした。こちらは、鳴り物総勢3名。それでもとにかく無我夢中でした。

踊り終わった後、メンバー数人はわけもなく号泣していました。張りつめた糸が切れたのか、高揚感が溢れたのか、理由はわかりません。全員、ただただ一生懸命でした。

上手い・下手という基準では最初から勝負していませんでした。下手に決まってるからです。とにかく叫ぶように踊りました。帯はほどけ、衣装はめちゃくちゃ。それでも気にしませんでした。

東京のよそ者で、たった7人で、無名で、知り合いもいない。ゲリラで場所を取って踊るだけ。
それ以上に、雰囲気に飲み込まれまいと自分を奮い立たせました。

「やれたね…。俺たち、やれたよね!」

何度も噛みしめるように言い、メンバーの肩を叩きました。

 

まだ汗もひいていない浴衣のまま、車一台に太鼓とメンバー7人が乗り込み、眉山山頂に向かいました。

夜景を眺めながら、「きれいだね」と誰かが口にすると、「きれいだね」と誰かが言う。そんなやり取りが何往復かすると、それ以降誰も何も言わなくなりました。

数年前と変わらず、宝石のように街は輝いていました。

今はこの町に、私たちのことを知る人がいる。それだけで救われたような気分で、涙が出そうでした。

眉山の輝きは、美しさと醜さが孕む

その夜、私たちは泊まるところがなく、車で吉野川沿いの漫画喫茶に行き、パーティールームで雑魚寝をしました。薄いブランケットにくるまり、祈るように目をつぶる私たち。何よりも、徳島という憧れの町で、自分が踏み出した一歩を噛み締めているようでした。

徳島の阿波踊りには、悲しいことや辛いこと、怯えながらも歯を食いしばったこと、そして人生で最も生きてる実感がしたこと、そんなすべてがつまっています。眉山の夜景を見るたびに、色んな感情が湧き上がってくるのです。

美しさは、醜さを孕みながら輝くもの。

私にとって、阿波踊り期間中に眉山から眺める夜景は、やはり世界一なのです。

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米澤 渉
1985年、東京都生まれ。一般社団法人アプチーズ・エンタープライズ プロデューサー。寶船プロメンバー「BONVO」リーダー。山形県米沢市おしょうしな観光大使。日本PRのCM『日本の若さが世界を変える』に出演。「my Japan Award 2014」 にて《箭内道彦賞》を受賞。

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