「技術を高め自由になっていくか」
「形を追って不自由になっていくか」
その意識の違いで、天と地ほどの差は生まれます。
両者が同じように表現にストイックに打ち込んでも、後者の場合、学んだことを破壊するのが怖くなっていきます。「形」が表現を形成しているからです。
染み込んだ常識は、日に日に心地よく感じてくるものです。不自由であっても、本人はそうは思いません。
確かに「常識的な形を追う」という方法論でも、ある程度の「いい芸能」「いい音楽」「いい感動」は生まれるでしょう。既存の常識にある表現に従うと、「いいとされているもの」になりやすいからです。しかしそれは、もうすでに世界に存在しているものであり、「退屈」になるリスクも持ち合わせています。
「いいとされているもの」は、「いいもの」か
そもそも世間では、「いいとされているもの」を観客が「いい!」と感じるかというと、違うわけです。
もっと強烈なものを求めています。1%でもこの世になかったアプローチが含まれ、感情が処理できないものが熱狂を作ります。汗の一粒でもいい、驚きを探しています。
それは時に「不快」と捉えられるかもしれません。常識をくつがえすものは衝動的であり、「非道徳的」と批評の対象になることでしょう。
しかし、その不快感にも似た感情は、観客を突き動かし、心を能動的に働かせます。受け取るだけではすまない“何か”。それが本当の意味での“いいもの”だと思うのです。
だから、忘れてはならないのは、どんな芸能や芸術も、自由へ解き放たれる行動であるということ。そのための技術であり、そうでなければそれは「鎖」にすぎないのです。