生きること

世界中の人と繋がれるツールは「英語」でも「SNS」でもない 。ハワイと仙台で学んだこと

2016/02/12

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2011年、3月11日。
東日本大震災が起こったとき、寶船は初の海外公演のためハワイのホノルルにいました。

日本時間では3月11日の14時過ぎ。ハワイ時間では、前日3月10日の夜19時過ぎのことでした。
震災のことをまだ気付かなかった私たちは、翌日に迫った「ホノルルフェスティバル」のために意気揚々でした。

「おい!日本人だろ!?大変だぞ!」

リハーサルも終え夜になり、楽しくワイキキビーチ沿いを歩いていると、何人もの外国人からすごい剣幕で声を掛けられました。

ハワイで迎えた「東日本大震災」

外国人の方々に「日本が大変だ!」と言われても、申し訳ないことに英語がよくわかっていなかった私たちは、
「日本人に冷たいな。なんで怒鳴っているんだろう?」
そんなリアクション。

しばらくすると、サイレンが街に鳴り響き、ビーチ沿いに消防車が何台も集まりました(ハワイの消防車は黄色い色をしています)。のどかな波の音と合わさり、なんとも不気味な雰囲気がありました。

ホテルへの帰り道、通りがかった建物の備え付けテレビに人垣が。人が群がる異様な光景に、立ち止まる私たち。その時、初めて震災のニュースを目にし、日本で大変なことが起こっていると知ったのです。

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ニュースに流れた凄まじい映像。そして帰国

巨大な濁流に流される家、車、人、人…。放送規制が日本と違うのか、鮮烈に飲み込まれる人々を映し出します。現地の英語のニュースでしたが、凄まじいことが起こっていることは一瞬で理解できました。ただ、東京はどんな状況なのか全くわからず、一気に不安が押し寄せました。

ホテルに帰り、20人ほどのメンバーが全員一室に集合。ニュースをつけながら日本に大慌てで連絡したのを鮮明に覚えています。その日は津波警報が発令し、ワイキキの海岸沿いは警戒線をはられていました。
ホテル側の話では、ハワイ時間で3月10日の22時頃から深夜2時頃までの間にオアフ島にも津波がくる。だから外出も禁止。ホテル1階~3階までに宿泊している客は、4階以上の廊下で雑魚寝(私たちの部屋は、幸い6階か7階だったと記憶しています)。英語でそんな内容の指示を受けました。

ホテルマンに許可を取り、同行していたJTBのスタッフさんと近くの店に走り、水とパンをあるだけ買ってきました。ABCストアもすべて閉まっていて、しばらく歩いた個人経営の小さなお店を利用しました。部屋に戻り、味のないパンをかじりながら、わからない英語のニュースを聞きます。

予定の深夜2時を過ぎ、窓の外を確認。大きな津波がないことを確認してベッドに入りました。

不安の中、フェスティバル当日へ

朝。
津波は、砂浜が荒れた程度で済み、ホノルルは無事でした(後で知ったのですが、津波は約3m。オアフ島で200前後の船が破損したそうです)。目覚めた時間には規制区域も解除されており、予定通りフェスティバルは開催。

寶船のパフォーマンスは大成功でした。震災の翌日に行われた私たちの出演は、メインステージの大トリ!大抜擢です。メンバーとしても、日本への不安を払拭したいという気持ちがあり、精一杯踊りました。

終演後、ハワイに住む日本人の方々から「元気をもらいました!」と何度も声をかけられました。言葉の通じないアメリカ人も、目を潤ませて傍に来てくれました。言葉も文化も違う国で、私にとって衝撃の体験でした。

『私たちの踊りは、他者のやり場のない不安や絶望を晴らすことができるんだ!』
きれいごとではなく、肌で感じた出来事だったのです。

しかし帰国後、海外公演の冒険談は「そんな浮かれた話をしてる場合じゃない、自粛しなよ」という雰囲気にかき消されました。日本中が胸の真ん中にぽっかり穴が空いたような状態。余震は続き、不安は募るばかり。花見も自粛、夏の阿波踊り大会も自粛ムード。無理もありません。

自分たちが必死でつかんだ「宝物」のような経験は、誰にも話すことができず心に閉まって鍵をかけました。

寶船の海外進出第一弾は、こうして儚い思い出となったのです。

 

そして、仙台で学んだ「強さ」

当時、私はバンドをやっていました。3ピースのバンドのギターボーカル。プロを目指して頑張っていたので、全国ツアーなども頻繁に行っていました。メンバーのベーシストが仙台出身だったこともあり、震災から約半年後の2011年夏には東北ツアーを決行。東北のライブハウスを周り、仙台へ。

津波で壊滅的な被害を受けた宮城県閖上から荒浜地区の海沿いを車で走りました。ハワイで見た凄まじい映像は、きっとこの辺りだったろう…そんなことが頭をよぎります。震災から5~6ヵ月後のことです。

「どうしても見ておきたい」

仙台出身のベーシストの強い想いがあり、津波の被害が大きかった海岸沿いを目指し、通行止めのテープをくぐりました。
車は、瓦礫が散らばる荒れ地を進みました。津波の影響か、未だに地面がぬかるんでいました。

辺り一面、教科書に載っていた戦後すぐの写真のように、地平線が見えるほど何もない想像以上の場所でした。空き地に車を止め、海岸まで歩く私たち。ニュースで見た荒浜小学校、ぐちゃぐちゃのガソリンスタンド、片方だけの靴。足元には、かつて幸せな生活を送っていたであろう暮らしの残骸が続いています。

ベーシストの幼馴染や友達は今でも行方不明。彼のふるさとは見るも無残な姿でした。写真を撮ろうと携帯を取り出す私。しかし、なぜか潰されそうな罪悪感があり、手のひらの中で親指が動かず、そのままポケットに携帯をしまいました。

かすかな波の音。海の匂いがしました。

「帰ろう」

しばらくぶりに彼は声を出しました。そういえば規制地域に入ってから数十分、私たちはため息以外に会話をしていませんでした。

「そうだね」

そしてそれ以上、私たちは何も言わず車に戻りました。

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そこで目にした『異様な光景』

仙台市街へ帰ろうと、本来入っては行けなかった黄色の通行止めテープの場所まで戻る私たち。日はすでに暮れはじめていました。

すると、なぜか陽気な盆踊りの音楽が耳に。異質な音楽だっただけに印象的でした。

『おかえりなさい 〇〇盆踊り大会』

垂れ幕が揺れていました。

荒れ果てほとんど何もない幼稚園跡で、盆踊り大会。子どもからお年寄りまで、笑顔が溢れ、明るい表情で盆踊りを楽しむ不思議な光景がありました。人数にすると、10人から20人程度。避難していた住民が一時的に帰ってきてお祭りを開いていたのです。

楽しそうに音楽に集まり、輪になって踊りを踊る人々。その光景に、大袈裟ですが「人間の本質」みたいなものを感じました。

「強いなぁ」

それがその時の正直な感想です。心が強いのか、人間は強いのか、絆が強いのか、今でもよくわかりません。私のことを、何もわかっていないのに無神経だと思う方もいるかもしれません。

ただ私はその光景を見て、なぜかとっさに「強さ」を感じたのです。

人には、感動できる強さが備わっている

実は今でも、津波や震災の話を聞く度に、荒れ果てた海沿いの光景よりも先に、みんなが楽しそうに明るく夏祭りを楽しんでいる光景が頭に浮かんできます。
人は生きようと必死になったとき、どん底でも明るく笑顔になれることを探しています。 私は、2011年に自分の目でそれを目撃しました。

震災で町がなくなっても、人は「世界中、皆で一緒に不幸になってほしい」とは願わないのです。辛いことや図りしえない悲しみを乗り越えて、明るい未来を熱望しています。明るく元気になるように、笑顔になれるために生きています。それが本当の「強さ」だと知ったのです。

阿波踊りがなぜ400年以上も続いてきたのか、やっとわかった気がしました。いつの時代も、生命力全開で、心から笑顔で弾ける瞬間を人は求めているのです。以来毎年、寶船としても大船渡などの東北をまわり、踊りを通じて現地の方と交流させていただいております。少しでも私たちの活動で元気を届けられたら…そう考えています。

二つの体験で確信に変わったこと

ハワイと仙台。この二つの体験で私の価値観は変わりました。なぜ自分がこの活動をしているのか、鮮明に見えた気がしたのです。寶船に対する熱意も必然と変わり、法人化してプロを目指したのはあの体験があったからです。

上手いとか下手とか、そんなことを競いたいのではありません。頭の先から足の指先まで、全身で感動するような瞬間を作りたい。なぜなら、人が絶望の淵から立ち上がるには、感情に染みる体験が必要なのだと感じたからです。どんな時にも人には感動できる強さが備わっていると確信しました。だから、その強さを肯定できる活動がしたいのです。

世代や文化を越え、世界中の人と繋がれるツールは「英語」でも「SNS」でもありません。

唯一、「感動」だと思うのです。

 

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米澤 渉
1985年、東京都生まれ。一般社団法人アプチーズ・エンタープライズ プロデューサー。寶船プロメンバー「BONVO」リーダー。山形県米沢市おしょうしな観光大使。日本PRのCM『日本の若さが世界を変える』に出演。「my Japan Award 2014」 にて《箭内道彦賞》を受賞。

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