vol.1 連長・米澤曜の家柄

◎曽祖父・市川寿三郎(本名:米澤廣之助)の存在

寶船と阿波踊りの関わりは、連長・米澤曜(よねざわ・あきら)の曽祖父、市川寿三郎(いちかわ・じゅさぶろう)の時代にまで遡ります。

明治43年(1910年)芝居茶屋で賑わう大阪・道頓堀
明治43年(1910年)芝居茶屋で賑わう大阪・道頓堀

寿三郎は慶応2年、江戸の歴史が終焉にさしかかった動乱の時代に生まれました。本名を米澤廣之助(よねざわ・ひろのすけ)といい、関西歌舞伎の名役者でした。

幼少から大阪・道頓堀で舞台に立ち、歌舞伎役者として一世を風靡。大阪に住居を構えていましたが、芝居茶屋で妻となるマサと出会いました。マサは、徳島市内にある料亭の看板娘でした。

当時の徳島は藍の産業が隆盛を誇り、商人が各地から良質の藍玉を求めて殺到していました。マサの料亭があった徳島の富田町は「富街」と呼ばれ、古くから藍商人を接待する街として発展。明治になり「富田街芸妓検番」が設けられ、徳島で最も有名な花街としてさらに繁栄していきました。

検番(けんばん)とは

料亭、置屋、芸者からなる組合の事務所を指す。客席に出る芸者の手配や、玉代(ぎょくだい)の計算などの事務を行い、料亭やお座敷に関すること全ての運営業務を担っていた。

寿三郎は、その後マサと結婚。歌舞伎役者として活動しながらも、マサの実家である料亭と置屋(おきや)の経営を任されることとなります。それを機に富田街芸妓検番の番頭(頭取)を務めることとなり、徳島花柳界における繁栄の一時代を築きました

置屋(おきや)とは

芸者や芸姑を抱えている家のこと。料亭・待合・茶屋などの客の求めに応じて芸者や遊女を差し向ける。芸者置屋・芸者屋などとも呼ばれ、これに料理を用意する料理屋と、場所を貸す待合茶屋や貸座敷を加えて三業といい、その組織を三業組合という。こうした芸者遊びのできる場所を三業地(花街、遊郭、色街など)ともいう。

昭和初期(戦前)徳島・検番近くを歩く舞妓たち
昭和初期(戦前)徳島・検番近くを行き交う舞妓たち

経営の手腕は確かだったようで、昭和10年に69歳で亡くなるまで「丁字(ちょうじ)」と名のつく一流の料亭と置屋を4〜5軒経営しながら、検番の番頭を兼任。徳島でもっとも有名な料亭に拡大させていきます。その際も、大阪では歌舞伎役者として活躍。「芸能」と「ビジネス」の才覚を共に持ち合わせていたようです。

 

◎寿三郎、徳島花柳界への阿波踊り普及に寄与

明治22年、寿三郎が24歳の頃の徳島市の人口は、全国で10位。かなりの大都市だったことがうかがえます。当時富田町の芸者は500人を越えており、路地はお座敷へ急ぐ芸姑が行き交い賑わっていたそうです。

そんな時期に寿三郎は、大規模だったけれども全国的にはまだ無名だった阿波の盆踊りを面白がり、徳島花柳界へ積極的に取り入れはじめました。

昭和初期(戦前)新町川沿いの藍倉
昭和初期(戦前)新町川沿いの藍倉

この背景には、「阿波藍産業の繁栄」と「三味線の普及」が深く関係しています。江戸後期から明治、大正までの徳島は藍産業で支えられており、東京や大阪からきた取引相手への接待が商談の場になっていました。つまり、芸達者な芸鼓が気に入られ上客がリピーターになることは、経済を活性化することでもあった訳です。

当時まだ「阿波踊り」という言葉はなく、「阿波の盆踊り」と呼ばれていました。江戸時代、一揆や反乱になるほどの狂気乱舞で、禁止のお触れが何度も出るほど不道徳的とされていた祭りです。もちろん、女性の参加自体がタブーの時代もありました。しかし寿三郎は、上客である藍商人たちを喜ばそうと、三味線と唄に合わせ芸姑を踊らせ、「お座敷芸」としての阿波踊りを花柳界に根付かせます。

もちろん、それまでも芸姑が踊りを踊ることはありました。しかし、検番の番頭として正式に指示し、阿波踊りを取り入れさせたことが大正期〜昭和初期の阿波踊りの隆盛を築いたことは間違いありません。阿波踊りが、三味線を中心とした気品あるスタイルに変化していったのは、検番の番頭であった寿三郎の手腕が大きかったとも言えるわけです。

おそらく大阪育ちの寿三郎は「よそ者の視点」を持ち、徳島と阿波踊りの魅力を客観的に見ていたのではと考えられます。当時の資料や歴史的事実をまとめると、非常にプロデューサー的な思考を想像できるのです。

そして同時期、美しく芸達者な芸姑がアイドル的な人気を誇ることで、三味線を習いたい若者が急増。市内には三味線の稽古場が続々と出現しました。また、練習した演奏を発表する場として、路地を演奏しながら歩く「三味線流し」が流行。親たちが競って娘に華麗な衣裳を着せ送り出し、自慢の種にしたといいます。

(次回につづきます)