vol.3 「阿波よしこの節」と「上丁子」

料亭「上丁字」の中庭の池にて
料亭「上丁字」の中庭の池にて

◎お鯉さんの唄声と上丁字での契約

昭和6年(1931年)、阿波踊りの歴史において特筆すべき出来事が起こります。

まだ阿波踊りが全国に知られておらず、徳島の盆踊りだった頃のことです。当時検番の番頭であった寿三郎は、唄がうまいと評判の芸者であった多田小餘綾(お鯉さん)を『日本コロムビアレコード』の大阪支社の担当者へ紹介したのです。

お鯉さん、当時24歳。大阪で歌舞伎役者として活躍し、芸能界に顔が広い寿三郎だからこそ、その顔合わせは実現しました。大阪から担当者を招き唄を披露する会場となったのは、寶船連長・米澤曜の実家であり寿三郎の経営していた料亭「上丁字」

お鯉さんの唄声は担当者の心を打ち、無事にレコード発売の契約が交わされました。

「二十四のときでした。「阿波踊り」を捜しにきとったコロムビアの人に、上丁字で歌を聞いてもらいましたの。結果がよかったんでしょう。吹き込みをすることになり、大阪へ行きましたんですよ。」

『続・徳島むかしむかし』飯原一夫著より、お鯉さんの話

 

コロムビアから発売された『徳島盆踊唄』のレコード
コロムビアから発売された『徳島盆踊唄』のレコード

◎阿波踊りの歴史が変わった「レコード」の誕生

昭和6年(1931年)。大阪のコロムビア大阪支社にて初めてその美声は収録され、世紀の名盤「徳島盆踊唄」は生まれました。

翌年昭和7年(1932年)発売。その年お鯉さんは、NHK大阪放送局ではじめてラジオに出演。昭和8年(1933年)にNHK徳島放送局が開局するとその人気が広がり、多くのラジオに呼ばれることとなります。こうしてお鯉さんは、全国に知られるレコード歌手となり、阿波踊りを一躍世に知らしめたのです。

ここからはあくまでも推測ですが、当時のことを調べると寿三郎は昭和8年(1933年)にNHK徳島放送局が開局することを以前から知っていたのではと考えられます。昭和6年(1931年)に満州事変が起き、戦況や国内の情報が必要となったことから普及され始めたラジオ放送。戦前で、まだ娯楽としては庶民には普及していない時代。しかし寿三郎の資料を調べると、「すぐにラジオが娯楽になる時代が来る」ということを予感していた気がするのです。

その後「徳島盆踊唄」は、「阿波踊り囃子」や「阿波よしこの節」と名前を変えつつ、何度もレコード化されていくことになります。

『阿波よしこの節』の普及に貢献し続けたお鯉さん
『阿波よしこの節』の普及に貢献し続けたお鯉さん

お鯉さんは、平成20年(2008年)に102歳で亡くなるまで生涯現役を貫き、『阿波よしこの』の普及に貢献し続けました。

徳島でしか踊られていなかった阿波の盆踊りの名が日本中に広まり、芸能性を高め全国各地で踊られるようになったのは、「徳島盆踊唄」のヒットがきっかけであると言えます。つまりお鯉さんの功績は大きく、そのきっかけを作った寿三郎の行動と上丁字での一件は、阿波踊り界の命運を決めたと言っても過言ではないでしょう。

(次回につづきます)